インテグラル・ヴィジョン

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※以下の文章は「コスモス三部作 第二巻からの抜粋B」の拙訳です。



 抜粋B:統合的アプローチの3原則
 Part2:3つの原則 ~非排除, 披き出し, 生成/制定~ (3/3)



 原則3:生成/制定

 ポストモダンあるいはカント以後の革命(それは解釈学から文脈主義や構成主義にいたるあらゆる運動の背後に息づいているのだが)における本質的な洞察とは、現象(例えば水素原子)とは、単にそのあたりに横たわりながら我々に目撃されるのを待っているものではないということである。

 このような見方は、今では「どうしようもなく素朴な」見方であるとみなされており、「所与の神話」(the myth of the given)(どのような現象も単に与えられるのではないということを指す)であると呼ばれている。

 そうではなくて、現象というものは、知覚主体がおこなう一連の行動によって、生成/制定され、提示され、開示され、そして照らし出されるものなのだ。先に述べたように、現象とは、諸々の指示やパラダイムや社会的実践によって、生成/制定されるのである。

 そして重要なのは次の点である。どのようなパラダイムも、どのような指示も、ある主体によって(あるいは主体の集団によって)実行されている。だが、あらゆる主体は、異なる意識状態や異なる存在状態のなかで、それらを実行する。要するに、異なる意識状態に応じて、異なる世界が提示されうるのだ。



 まさしくこれこそが生成/制定(enactment)という原則である。この世界を認識しようとするとき、主観性(あるいは後述するように間主観性)によって、現象論的世界が提示されるのである。だが、ここでは、そのことをめぐる細かな論点には触れずに、単にこのポストモダンの啓示をAQAL的に解釈することにしよう。



 主体は、世界を知覚(perceive)するのではなく、世界を生成/制定(enact)する。異なる意識状態は異なる世界を提示する。AQAL的に言えば、主体は、意識の特定の波にいるのであり、意識の特定のストリームにいるのであり、意識の特定のステートにいるのであり、そしてどこかの象限にいるのだ。

 言い換えれば、異なる種類の人間探究によって提示される諸現象は、そうした諸現象を提示させた主体がいるところの象限とレベルとラインとステートとタイプによって、異なるものになるということである。ある意識波にいる主体が生成/制定する世界空間とは、別の意識波にいる主体が生成/制定する世界空間とは異なるであろう。それと同じことが、象限、ストリーム、ステート、タイプのそれぞれについても言える(詳しくは後に述べる)。



 だからと言って、現象とは、客観的にそこにあるものではありえないというわけではない。そうではなくて、現象とは、あらゆる人にとってそこにあるものではありえないのである。マクベスは確かに存在する。だが、それは私の犬にとっては存在しない。DNAをもつ細胞は確かに存在する。だが、それは顕微鏡を使用する主体によってしか見ることができない。涅槃〔ニルヴァーナ〕は存在する。だが、それは二元的な意識状態にとっては存在しない。こういう具合である。

(例えば、DNAをもつ細胞は、オレンジの確率波が現れるまでは、存在(exist)するものではなかった。そしてそれゆえに、呪術的世界観や神話的世界観においては、細胞とは、前面に現れてくるものではないのである。とは言っても、DNAがそこになかったというわけではない。ただ、それらの世界観のなかでは、「外に出てくる」(ex-ist) ものではなかったのである)

 現象とは、その現象を生成/制定することのできる主体、そしてその現象を共創造することができる主体にとってのみ――より厳密に言えば、その現象が四象限的に生成/制定(tetra-enact)されるときにのみ――外に出てくるのであり、前面に現れるのであり、そして輝きを放つのである。



 この生成/制定という着想については、本論全体を通して(だが特に抜粋Dにおいて)ふたたび言及するつもりである。さしあたり、この概念が有用であるのは、もしこの概念がなければ「通約不可能」な多数のパラダイムを、1つ1つ褒めたたえ、大切なものだと認め、そしてまとめ上げるための理由を与えてくれるからだ。

 たいていの「パラダイムの衝突」は、両者のパラダイムが「通約不可能」である――2つのパラダイムを一緒にまとめ上げる方法など存在しない――ということに原因があるとみなされている。だが、それらが通約不可能なのは、実践ではなく、現象に目を向けているからなのだ。

 もし現象というものが諸々の実践によって生成・制定・提示・開示されるものであるということを明確に認識するならば、我々は、これまでに「互いに対立している諸現象」や「互いに対立している諸経験」であると思われていたものが、実は単に異なる実践によって提示された異なる体験(そして完全に両立可能な体験)であるにすぎないということをはっきりと理解するだろう。

 異なる実践を実行してみよ。そうすれば、あなたは、「通約不可能」であると考えていたパラダイムの支持者が見ていたのと全く同じような現象を見るであろう。したがって、「通約不可能性」とは、克服不可能なものでもなければ、どのような統合的な抱擁を果たすうえでも、重大な障壁にもなりえないのである。



 統合的なメタ理論が実際にうまく機能するのは、それが本物のパラダイム横断的実践に秘められた可能性を――理論上においても実際上においても――基盤に置くものだからである。要するに、もし2つの実践がともに真なる現象や信頼に値する現象を生み出すというのであれば、1人の主体が、両者の実践をともに実行することによって、自分自身でその両者の現象にふれることができるのだ。

 他方で、もしそうした諸現象が――そしてそれらが生み出す現象間の対立が――すべて同一の世界空間のなかで生じたものであるとみなすならば、統合的なメタ理論をつくることは不可能である。

 だが、異なる実践によって異なる現象論的領域が提示されるのだということを理解するならば、そうした諸々の現象は、もっともらしく一貫性をそなえた統合的なフレームワークによって、まとめ上げることができる。そのフレームワークにおいては、さまざまなかたちで生成/制定された世界空間のすべてに居場所が与えられるのである。そしてそれこそがAQALの目指すものなのだ。



 例えば、AQALというメタ理論は、上述のような物理学と瞑想のあいだの「パラダイム衝突」に対して次のような解釈を与える。先ほどの物理学者たちは、オレンジの意識波にもとづいて、世界内存在の3人称単数次元に光を当てている。(そしてその地点から見ると、世界空間のなかで、クォークは実際に前面に現れている――「外に出てきている」(ex-ist) ――のである。もう一度言えば、だからと言って、オレンジの意識以前にはクォークが存在していなかったというわけではない。ただ、クォークは「外に出てきて」はいなかった――人間にとっては見えなかった――のであり、オレンジの意識構造によって初めて前面へ呼び出されたのである)

 他方で、瞑想者たちは、第三層の意識状態にもとづいて、世界内存在の1人称単数次元を活性化させている。(そしてその地点から見ると、あなたは涅槃〔ニルヴァーナ〕とはどのようなものかをはっきりと理解することができる。涅槃の状態は、その世界空間のなかでは、実際に「外に出てくる」(ex-ist) のであり、それゆえに明確に認識することができるのだ)

 二人の実践者は、異なるものや異なる世界を見ているが、それは両者が異なる社会実践や異なるパラダイムや異なる指示を実行したからなのである。だが、別の実践をおこなってみよ。そうすれば、あなたは別の世界を見るであろう。パラダイム衝突のなかで自分たちの天敵だとみなしていた人々が見ていたのと本質的に同一の世界を、あなたも見ることになるのである。



 だが、1人の主体が慣習的な物理学と瞑想をともに実践するとき、そこではどのようなことが起こるのであろうか。一般的に言うと、2つのことが起こる。

 1つ目として、大抵の場合、クォークと涅槃がともに本物であるということに同意するだろう。2つ目として、大抵の場合、涅槃の根底にあるものはクォークよりも包括的なものであるということに同意するだろう。より正確に言えば、涅槃という状態の根底にあるリアリティとは、クォークという顕現領域の現象を、そのうちに含みこんでいるもの、包みこんでいるものだとみなすであろう。

 これはまさに披き出しの一般的原則なのだが、ここでは、その原則はパラダイム横断的な仕方で作動している(シャンカラが「止揚」と名づけた活動である)。だが、披き出しの原則とは、たとえパラダイム横断的な仕方で作動するときであっても、以前の真実を単に「正しくない」ものにするものではない。ただ「それほど正しくない」ものにするのである。そう、もう一度言えば、ここで失われるものなど何もない。すべては包みこまれてゆくのだ。



 私の著書『量子の公案』は、偉大なる先駆的物理学者たちの文章についてのアンソロジーである。彼らもまた深遠なる第三層的-霊的/精神的な悟りを体験していたのだ。そしてそこでとりあげた物理学者たちとは、エルヴィン・シュレディンガー、ニールス・ボーア、ヴェルナー・ハイゼンベルグ、アーサー・エディントン、ルイ・ド・ブロイ、ヴォルフガング・パウリ、ジェームズ・ジーンズ、マックス・プランク、そしてアルバート・アインシュタインといった人物である。

 ここに挙げた人たちはすべて、〔物理学と黙想的探求という〕両者のパラダイムに自ら馴染んでいたのだが、少なくとも彼らのあいだでは、それぞれのパラダイムによって開示された諸現象は、単に通約不可能であると即断できるようなものではないということで意見の一致があったのである。例えばエディントンはこのことを「物理学における諸現象は、神秘主義における諸現象を、正しいものだと証明することもなければ、間違いであると証明することもない」と要約した。これは「非排除」の原則を述べた素晴らしい例であろう。



 どのような2つのパラダイムも、両者のパラダイムをともに実行することによって、横断的に比較することができる。そして先ほどの物理学者-神秘家たちは、両パラダイムをともに実行したとき、次のいずれかのように結論づける傾向にあった。ピュシス(物質)とは、高次のリアリティ(スピリット)の顕現であり、それによって包みこまれている。あるいは、ピュシスとスピリットは、大いなる全体性の一側面である。

 そしてこのどちらの結論も「披き出し」の一種なのである(低次のものはすべて高次のものに含まれるが、高次のものはすべて低次のものに含まれるというわけではない)。



 最後に述べると、実践者のなかには――例えばシュレディンガーやエディントン――次のように述べる者たちがいた。そのような高次の領域を実際に「見る」ためには、主体の側が「意識の状態を変える」ことが必要である、と。そう、これこそが「生成/制定」なのだ。

 言い換えれば、高次の意識状態や深遠な存在状態について、3人称的な地図やシンボルを与え続けるだけでは、リアリティそのものをつかみとることは決してできないのだ。そうした高次の状態とは、深遠なリアリティそのものを1人称的に生成/制定することによってのみ、開示・提示されるものなのである。先ほどの物理学者たちにとって、彼らがその生成/制定のなかで見出したものは、中性子ではなくて神だということは明らかであった。3人称的な推論結果ではなく、1人称的な悟りなのである。



 ここで大事なことは、我々がピュシスとプネウマ――物質と精霊――の関係をどのように捉えるにせよ、今まで「通約不可能」であると考えられていた領域のなかを突き進むことを支えてくれるようなヒューリスティック〔発見的〕な原則が存在するということである。
 
 とは言っても、このような物理学者-神秘家たちがコスモスとスピリットの関係について最終的な結論に到達したと述べているわけでは決してない。そうではなく、私が述べているのは、両者のパラダイムを十分に修得してきた人々のみが、信頼に値するようなかたちでパラダイム横断的な判断を下せるということなのだ。

 このことは、それらを誠実に比較するためには、あなたや私が両パラダイムを必ず修得しなければならないということではない。ただ「誰か」がそうしなければならないのだ。(したがってパラダイム横断的な判断に対しても妥当か否かを判断するための基準が確かに存在する)

 それはちょうど、私自身は水素原子を見たことがないけれども、立派な男性と女性たちが、物理学のパラダイムを誠実に活用することによって、水素原子は実際に存在するのだと私に信じさせてくれるような地平を生成/制定しているのと同じことである。(そして私が彼ら彼女らの言うことを信じているのはただ今までに一度も嘘をついたことがないからである)。

 したがって、物理学と瞑想の関係について述べるということになれば、私自身は、両者のパラダイムを十分に修得することによってそれぞれの世界空間をともに生成/制定することができるという人たちの主張を、そうでない人たちの主張よりも、遥かに真剣に受けとめる。なぜなら、そうした人たちはその双方の地平内で活動しているのであり、そしてそれゆえに、その双方の領域において何が起こっているのかということ――そして双方の領域が互いにどのように関係しているのかということ――に関する目撃証言を与えてくれるからである。



 大事なことは次の点である。パラダイム横断的な判断が可能であるのは、諸々のパラダイムがその支配権を求めて争い合うようなただ1つの世界が存在するというわけではないからである。そこには敗者は存在しない。「お山の大将」を決めるために闘争し、敗者をゴミ捨て場に放りこむようなものではないのである。

 あらゆるパラダイムがそこでの優越性を求めて闘争するような1つの世界があるわけではない。異なるパラダイムによって多数の世界が提示されるのである。1人の人物が、各世界を生成/制定するために必要な各パラダイムの規律に従うことによって、多数の世界を目撃することができるのである。

 「唯一の世界」のなかには多数の世界を含めることができないが、「意識」のなかには多数の世界を含めることができる。そして多くの世界が存在するということを我々はすでに認識している。したがって、我々はすでにパラダイム横断的な能力をそなえた意識を活用しているということになる。そしてその能力によって、我々はメタ理論的な全体像――例えばAQALにもとづくもの――を手にすることができるのである。



 以上で述べた3つの統制的原則――非排除, 披き出し, 生成/制定――とは、もしあなたがお望みならば、「互いに対立しているように見える無数のパラダイムが世界のいたるところで立派に実行されている」という事実をリバースエンジニアリングすることで生み出すことができるものだ。

 そしれそれゆえに、問題は、どちらが正しくてどちらが間違っているかということではない。そうではなく、このすべてがすでにコスモスのなかで同時に生起しているというのは、どのような事情で起こることなのかということなのだ。あまりにも多数のパラダイムがすでに生起しているというこの宇宙のなかで、この3つの原則は、すでに作動している必要がある。そして真に興味をそそられる問いかけとはただ次のようなものだけなのである。

「あらゆる宇宙のなかで、このような驚くべき実践の数々がすべて同時に生起している。このようなことが起こりえたのは、いったいどのような事情によるものなのだろうか?」




(続く)




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2012.02.26 17:00 | 〔理論〕コスモス三部作第二巻抜粋 | トラックバック(-) | コメント(0) |












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